寒暖の激しい季節となりましたが、貴社益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

先の見えぬ不況に苦しむ現代。
この「不況」を「南極越冬」に例え、先人の偉業を2点お届けいたします。

1点目は、「南極探検隊」という危険な仕事の募集を任されたイギリスの探検家・
アーネスト卿の広告。
2点目は、「南極越冬」という苦境を、偉大なリーダーシップ力によって乗り越えた、
南極探検隊・副隊長の西堀榮三郎氏。


経営の合間に、ご一読頂けましたら幸いです。

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第1話 【南極探検隊 募集広告】

探検隊員求む。
至難の旅。 わずかな報酬。
極寒。 暗黒の長い月日。
絶えざる危険。 生還の保証無し。
成功の暁には名誉と賞賛を得る。


この南極探検隊募集の広告は、歴史的に非常に有名な広告です。
この広告を出した探検家・アーネスト卿の思惑通りに行けば、
英国でも選りすぐりの屈強な冒険野郎が、数名応募してくるだけのはず・・・。
しかし実際には、27名の募集に5000人を超える応募者が殺到してしまった。
この男心を鷲掴みするようなコピーには、抗えなかったということでしょう。


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第2話 【極寒・南極越冬隊の奇跡】

昭和32年(1957年)1月29日午後8時57分、南極観測隊の総勢34名は、
未知の白い大陸に上陸を果たした。
日章旗が掲げられ、昭和基地と命名された。
「日本隊、南極上陸」のニュースは、国中を沸き立たせ、号外も出た。

喜びに溢れる隊員たちの中に、これを壮大な冒険に譚してはいけないと
真剣に考えてきた男がいた。

副隊長の西堀榮三郎、53歳。
南極観測への参加を求められた時、西堀はすでに50歳を過ぎていた。

日本隊の目的は、国際地球観測年に共同参加することにあったが、
日本隊には極寒地の経験も資材も十分ではなかったために、文部省は
「いきなり越冬は無理」と慎重論をとっていた。
しかし西堀は、日本は今こそ観測成果を世界に示す必要があると考えていた。
西堀は、「南極に行く意義は越冬にある。私なら出来る」と越冬を主張し、
西堀以下11名の越冬隊員が決まった。

南極オングル島の昭和基地、初の越冬が始まった。
間もなく、風速50mのブリザードが三日三晩吹き荒れ、観測用の小屋と通路が
粉々になった。気象観測に出かけた隊員は、恐怖で幻を見た。
食糧倉庫は、地面の氷が割れ、食糧の3分の2を失った。間もなく皆の様子が
おかしくなり、本当にここは生き残れるのがやっとで、研究や観測どころでは
ないと皆が思った。

しかし、西堀榮三郎だけは意気軒昂だった。
食糧確保のためにアザラシを撮り、夜はひとり白い大地を歩き回りオーロラに
胸をときめかせた。部屋にこもると煙草の空缶を組み合わせて雪の結晶の
調査をする道具を作った。“そんなもので科学の観測ができるのか”、尋ねる
隊員たちに、西堀は言った。

「やる前から駄目だと諦める奴は、一番つまらん人間だ。自分を蔑むな。
落ちこぼれほど強いんだ。まず、やってみなはれ」

隊員たちの顔つきが変わった。
各々がテーマを見つけ、観測は日に日に充実し、越冬生活も西堀を中心とした
創意工夫と結束力で乗り切った。
西堀の言葉に発奮した南極越冬隊の気象・地質の観測結果は、帰還後、
世界を驚かせ、日本人の底力を知らしめることとなる。

西堀榮三郎は言う。

「人材を育てる方法は、ただ一つ。仕事をさせ、成功させることである。
成功経験が人を育てる。さらに大きな仕事をさせる。人と仕事の美しい循環を
成立させることである。」

「同じ性格の人たちが一致団結していても、せいぜいその力は『和』の形でしか
増さない。だが、異なる性格の人たちが団結した場合には、それは『積』の形で
力が大きくなるはずだ。」

経営者たちには、一番重要なのは人が人を使うという思想を捨てることである
と諭した。

「それぞれの仕事はみな尊い。命令でやらされているんだという受身の姿勢で
いる間は駄目であり、魂を込めて自主的に仕事が出来るように、環境をつくって
やることが大切である」

亡くなる直前まで病の床から、来る人来る人に熱く語り続け、いつも吸い込まれる
ようなあの素敵な笑顔を見せた。

            ~『プロジェクトX リーダーたちの言葉』より抜粋・要約~

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今後も宜しくお願い申し上げます。

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